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東京地方裁判所 平成2年(ワ)13168号 判決

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告佐藤久子に対し、金三四七八万九六六四円、原告佐藤竜久に対し、金一五七一万六九〇一円、原告宮下睦美に対し、金一五七一万六九〇一円及びこれらに対する平成元年七月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、亡佐藤守(以下「守」という。)が、被告の経営する横浜総合病院(以下「被告病院」という。)で診療中に死亡したことにつき、守の妻子である原告らが、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づき損害賠償の請求をした事案である。損害の内訳は大要次のとおりである。

守の逸失利益    三〇八六万七六〇五円

守の慰謝料     二〇〇〇万円

(なお、守の右損害賠償請求権につき、その二分の一を原告佐藤久子(以下「原告久子」という。)が、その四分の一ずつを同佐藤竜久(以下「原告竜久」という。)及び同宮下睦美(以下「原告睦美」という。)が相続した。)

原告久子固有の損害

慰謝料       四〇〇万円

守の葬儀費用    三三五万五八六一円

弁護士費用     二〇〇万円

原告竜久固有の損害

慰謝料       二〇〇万円

弁護士費用     一〇〇万円

原告睦美固有の損害

慰謝料       二〇〇万円

弁護士費用     一〇〇万円

一  争いのない事実

1  原告久子は、守の妻であり、原告竜久及び同睦美は、守の子である。

2  守は、平成元年七月八日早朝に被告病院と診療契約を締結し、同病院の当直医であった訴外岡本成一医師(以下「訴外岡本」という。)の診察を受けたが、その後、急変し、同日午前七時四五分頃急性心不全により死亡した。

二  争点

1  訴外岡本の過失(使用者責任)又は被告病院の債務不履行の存否

2  損害論

三  争点1に関する当事者の主張

1  守の死因についての原告ら及び被告の主張

(原告らの主張)

守は、不安定狭心症から移行した急性心筋梗塞を急激に悪化させ、不整脈から致死的不整脈である心室細動に陥り、結局心停止をきたして死亡した。

(被告の主張)

守の死因としては、心筋梗塞、解離性大動脈瘤、胸部大動脈瘤、脳出血(とりわけ高血圧性脳出血)が考えられるが、死因の特定はできない。

2  問診・鑑別診断上の過失についての原告らの主張

(一) 訴外岡本は、守の愁訴部位からして、発症の誘因、疼痛の部位及び持続時間、疼痛の拡散の状況、緩和の推移、日頃の血圧の状態、高血圧、糖尿病及び高脂血症等既往症の有無等について問診すべきであったにもかかわらず、右確認を怠った。

(二) 胸部に疼痛があった場合、血圧、脈拍、体温等の検査や呼吸状態の確認等のバイタルサインのチェックを行うべきであったのにこれを行わなかった。また、訴外岡本は、守の愁訴から急性膵炎又は狭心症の発作を疑っていたようであり、その場合、より確率の高い疾病である狭心症に関して、血圧測定・心電図検査・ニトログリセリン投与を直ちに行うべきであったのにこれを行わなかった。

3  治療行為上の過失についての原告らの主張

(一) ニトログリセリンの投与は狭心症の鑑別診断のみならず、治療方法としても有効であるから、訴外岡本が狭心症を疑った以上、ニトログリセリンの投与は不可欠であったにもかかわらず、投与を怠った。

(二) ペンタジンは、末梢神経を収縮させ、左室充満圧、肺動脈圧や抹消血管抵抗を上昇させて心筋酸素需要を増大させるので狭心症や心筋梗塞には使用すべきではなく、しかも訴外岡本は、守の狭心症を疑ったにもかかわらず、漫然とペンタジンを注射し、守の不安定狭心症又は急性心筋梗塞を急激に進行させた。また、血圧降下の副作用のあるFOYを漫然と点滴静注されているが、これも守の症状を急激に進行させたものと考えられる。

(三) 不整脈又はその前兆が現れた場合には、直ちにこれに対処しなければならないから、訴外岡本としては、心電図モニターによりこれを察知し、直ちにリドカイン(キシロカイン)を点滴静注すべきであったのにこれを怠った。

(四) 不安定狭心症や急性心筋梗塞の場合には、患者を安静にさせて心臓の仕事量、酸素消費量を抑制するべきであったにもかかわらず、訴外岡本は、診察室間の移動等において守を漫然と歩行させた。

(五) 不安定狭心症又は急性心筋梗塞の場合、虚血に陥っている心筋に少しでも酸素を供給する必要がある。守の場合、容体の急変と同時に呼吸停止及び心停止が起こっているが、訴外岡本は心臓マッサージを施しているものの、酸素吸入等呼吸確保と管理に必要な措置を直ちに採っていない。

(六) 心筋梗塞の場合、死亡の五〇パーセントは、発症から三、四時間の間に起こるから、最初の一、二時間の治療が決定的な意味を持つ。そして心室性期外収縮や心室細動等を把握するため、診断と同時にモニターを装着する必要がある。しかし、本件においては、ICU搬入前の段階では心臓マッサージとマスクアンドバックによる人工呼吸が行われたのみで、ICU搬入後も訴外上林院長及び訴外鈴木医師が駆けつけるまでの間適切な救命治療がされなかった蓋然性が高い。

第三  争点に対する判断(認定に用いた証拠は括弧内に示した。)

一  本件の事実経過(日付は、平成元年七月八日である。)

1  午前四時三〇分頃、守は、突然の背部痛で覚醒し、庭に出たところ、しばらくして、軽快した。その後、原告久子の強い勧めもあって、守は、原告竜久と共に自動車で被告病院へ向かった(原告久子、同竜久の自宅から被告病院までは、制限速度に従えば、車で六、七分くらいの距離である(甲二六号証)。)。当初守自身が運転していたが、途中で背部痛が再発し、原告竜久が運転を替わった(以上、甲一三、一四号証、原告竜久供述)。

2  午前五時三五分頃に守らは、被告病院の夜間救急外来の受付を済ませ、その後まもなくして、外来診察室において、訴外岡本の診察が開始された(乙一号証、岡本証言)。受付では、氏名、住所、年齢等は、原告竜久が応答したが、症状等は、守自身が応答した(原告竜久供述)。

3  守の主訴は、上背部(中央部分)痛及び心窩部痛であった。触診所見では心窩部に圧痛を認められたものの、聴診所見では、特に心雑音、不整脈等の異常は認められなかった。なお、訴外岡本は、診察に当たり、守の血圧、脈拍、体温といったバイタルサインの測定を行っていない。また、守が高血圧であるという点についても訴外岡本は、特に聞いていない(以下、乙一号証、岡本証言)。

4  守は、訴外岡本に対し、診察時までに痛みは軽減した旨及び七、八年前にも同様の痛みがあり、そのときは尿管結石であった旨伝えた。訴外岡本は、守の痛みから考えて、尿管結石については否定的であったが、念のため尿検査によって潜血の有無を確認することとし、まず、看護婦に守の尿検査を指示した。検査の結果、潜血の存在が否定されたので、その時点で訴外岡本は、症状の発現、その部位及び経過等から第一次的に急性膵炎及び第二次的に狭心症を疑った(以上、乙一号証、原告竜久供述、岡本証言)。

次に訴外岡本は、鎮痛目的で、看護婦にペンタジン三〇ミリグラムを筋肉内注射させ、更に、守に外来診察室の向かいの部屋に移動してもらった上で、看護婦にフルクトラクト二五〇ミリリットルに急性膵炎に対する薬であるFOY三〇〇ミリグラムを加えた点滴を静注させた(以上、乙一号証、岡本証言)。なお、診察開始から守が点滴のために部屋を移るまでの時間は一〇分くらいであった(原告竜久供述)。

5  守が点滴のための部屋に移ってから五分くらい後、守は、点滴中突然「痛い、痛い」と言い顔をしかめながら身体をよじらせ、ビクッと大きく痙攣した後、すぐにいびきをかき、深い眠りについているような状態となった。原告竜久の知らせで向かいの外来診察室から訴外岡本が駆けつけ、呼びかけをした。しかし、ほどなく、呼吸停止により、いびき音が消失し、訴外岡本が守の手首の脈をとったところ、触知可能ではあったが、極めて微弱であった。そこで、訴外岡本は、対外心マッサージを始めると共に看護婦にアンビュバッグによる人工呼吸を指示した(以上、乙一、二号証、原告竜久供述、岡本証言)。

6  午前六時頃、訴外岡本及び看護婦は、右蘇生術を継続しながら、守を二階の集中治療室に搬入した。そこで、直ちに気管内挿管を施行し、心電図モニターを守の胸壁に設置した。まもなく、被告病院の循環器の医師である訴外鈴木が到着し、蘇生に加わった(乙一、二号証、岡本証言)。

集中治療室においては、ボスミン等の強心剤が心注されたが、心室細動が継続し、抹消脈拍は触れなかった。また、右鎖骨下静脈を穿刺し、中心静脈栄養カテーテルを挿入した。メイロン点滴、ラシックス静注等をし、心マッサージを続けたところ、数秒固有心室調律になったが、すぐ心室細動に戻った。キシロカイン静注後カウンターショック(電気的除細動)が試みられたが効果はみられなかった。午前七時頃に右橈骨動脈血管を確保し、観血的動脈圧測定を行った。そして、再度ボスミン心注により蘇生が試みられたが、同三〇分頃には心停止を来たし、心マッサージにも反応しなくなり、同四五分頃に守の死亡が確認された。なお、集中治療室における治療中に守には、腹部膨満の所見がみられた(以上、乙一、二号証)。

7  ところで、原告らは、守らが被告病院に着いたのは、午前五時五分頃であり、訴外岡本の診察が開始されたのが午前五時一二分から一八分頃であり、守の容体が急変したのが、同二六分ないし三四分頃であると主張し、原告竜久がこれに沿う供述をしている。また、原告らは、甲二四号証(事務当直日誌)の守の入院の欄に五時三五分と記載されていること、乙九号証(診察報酬明細書)の観血的動脈圧測定が一三〇分、呼吸心拍監視が二時間と記載されており、右各措置が集中治療室内で行われたことが明らかであるから、これを守の死亡時である午前七時四五分から逆算するとそれぞれ、午前五時三五分及び同四五分となることを原告らの右主張の根拠としている。

しかし、守の夜間・休日専用カルテの受診月日の欄には「1年7月8日土曜日 AM5時35分」と記載されているところ(乙一号証)、これは、受付時に受付担当者において記載するものであり(岡本証言)、右担当者として受付時間の虚偽記載をする理由が見当たらない。また、甲二四号証及び乙一一号証によれば、時刻、氏名、住所、年齢、担当医、症状、保険証、入院の各欄につき、まず、時刻欄から保険証欄まで「5〓35 佐藤守 大場町930―133 56 岡本Dr 背中痛 有」と黒字で記載され、次いで、右記載部分が赤字でなぞられた上で、入院欄に新たに赤字で「5〓35」と記載されていることが認められる。そうすると、甲二四号証の記載からは、当初受付時間が五時三五分なのか、集中治療室への入室時間が五時三五分であったのか直ちに判別がつかない。そして、乙九号証の記載についてであるが、同号証には集中治療室入室直後から行われていた人工呼吸(酸素吸入)や非開胸的心マッサージがいずれも一〇五分と記載されていること、観血的動脈圧測定がなされたのは、訴外鈴木が被告病院に駆けつけた午前六時過ぎ以降であることから、乙九号証中の原告ら指摘の時間をもって、集中治療室への入室が午前五時三五分頃と言うことはできない。

二  守の死因について

原告らは、前述のとおり、守の死因は、不安定狭心症から移行した急性心筋梗塞に伴って発生した致死的不整脈であると主張し、甲三九、四〇、四五号証及び森証言を援用する。これに対して、早川鑑定は、守の主たる症状が背部痛であったこと、痛みが心窩部にも移転又は拡大したこと、心窩部痛が自発痛ではなく、圧痛であったことは、いずれも急性心筋梗塞の症状としては稀であるとし、また、急激に死に至るような急性心筋梗塞では、梗塞の範囲が広範であるか、致死的不整脈を伴うのが普通であるところ、前者では、発症直後よりショック状態あるいは心不全状態に陥るのが普通で、本件のように自動車を運転したり、病院到着後歩いたりすることは不可能であり、後者では、動悸、めまい、失神等の発作が出現しやすいが、本件ではそのような症状が急変まで認められないとして、臨床的に通常見られる症状から確率論的に考察した場合、本件の守の死因を積極的に急性心筋梗塞とすることは困難であるとしている。その上で、早川鑑定は、本件では判断の資料となる医学的データが極めて限られているので死因を明確に判断することは困難であると断った上で、守の死因として最も考えられるのは、下行大動脈を中心とする解離が進行して、大動脈が破裂したことであるという。その理由として、疼痛が背部痛から始まって拡大し、心窩部に拡大又は移動したこと、昭和五九年頃から胸部レントゲン写真に大動脈弓の突出が認められており、大動脈解離の主要な原因である大動脈硬化が進展していた可能性が高いこと、急変時の症状は大動脈の破裂と、また、集中治療室における腹部膨満は大動脈から腹腔内への大出血と説明できることを挙げている。

ところで、心筋梗塞の中には前胸部痛より放散部位の痛みが先行する非定型的な場合もあり(甲八号証)、本件における背部痛の発生及び心窩部への痛みの移転はまさにそのような場合であると考えることもできること、急性心筋梗塞の自覚症状には、無症状から強い症状まで存在することも事実であり(早川鑑定)、そうであるならば、守が自動車を運転したり、病院到着後自力で歩いたりしても必ずしも矛盾しないこと、動悸、めまい、失神等の発作が急変時まで認められないのは、その時まで致死的不整脈が発生していなかったと考えうることに照らせば、典型的な自覚症状を呈していなかったものの守が心筋梗塞であった可能性を否定することはできない。

他方、原告らは、もし大動脈解離であれば、大動脈壁が裂けた部位に血液がどんどん流れ込み解離が進行するのであるから、自然に疼痛が軽快するはずはなく、また、痛みの程度が激烈であることからしても本件を大動脈解離と考えることはできないと主張している。確かに、大動脈解離の場合の痛みは、一般的には、心筋梗塞のじっとこらえるような「静」の痛みと対照的に患者が輾転反側して苦しむようなものであり(甲一七号証)、その進展した範囲に広がる激痛で、通常の麻薬を含む鎮痛薬ではなかなか改善しないものである(甲三三号証)。しかし、早川鑑定の結果によれば、一旦裂けた大動脈壁もその後の経過によっては、解離の進行が一時的に中断することもあり、その場合には一度発生した疼痛が自然に軽減することも少なくないことが認められる。そうであるならば、大動脈解離の自覚症状としては典型的とはいえないものの守が大動脈解離であった可能性を否定することもできない。

そうすると、本件の守の医学的所見を前提とする限り、客観的見地から急性心筋梗塞か大動脈解離かを確定することはできない。なお、日本における心筋梗塞の発生率は大動脈解離のそれより相当程度に高いことが推認されるが(甲四五号証、早川鑑定書添付資料三二九頁参照)、守の医学的所見に照らしていずれも矛盾を来さない異なる死因の可能性があるというのであるから、右の事情をもっても、守の死因が心筋梗塞であることが蓋然的であったとまで認めることはできない。

そうすると、原告らが主張する死因を認めるには足りないと言うべきであり、したがって、不安定狭心症、急性心筋梗塞の悪化、心室細動、心停止という死因を前提とする過失を論ずることはできない。

三  以上説示のとおり、その余の点を検討するまでもなく、原告らの請求は理由がないというべきであるが、本件においては守の解剖所見が存しないばかりではなく、守に対する適切な初期診療がされていたならば得られたであろう資料が存しないために、死因の確定ができないという事情が認められ、集中治療室において心室細動が継続していたこと(乙二号証)に照らせば、原告ら主張の死因の可能性も決して少なくないので、以下においては、原告らの死因主張を前提とした場合についても検討を加えることとする。

なお、右前提に立って前記認定事実を観察すれば、守は、四時三〇分ころ自宅において狭心症発作にみまわれ、病院への往路での自動車を運転中に再度の発作にみまわれ、その後心筋梗塞に移行していったものであり、病院内において自力歩行し、診察時には狭心症発作当時よりも痛みがやや軽減していたが、診察当時、心筋梗塞の程度は相当に増悪した状態にあり、点滴中に致死的不整脈を生じ、容体の急変を迎えるに至ったと想定することができる(甲四〇、四五号証、森証言参照)。

1  急変後の救命可能性

致死的不整脈が発生しても除細動を速やかに行えば、脈が洞調律又はそれに準じた正常な調律に戻る蓋然性が高い。もっとも、そこから当該患者を救命できるか否かは、脳循環の途絶していた時間すなわち致死的不整脈発生から脈が回復するまでの時間、心筋梗塞の部位及び大きさ、他の基礎疾患の有無等によって決まる(以上、森証言)。

本件において、心筋梗塞の範囲が広範であったと推定する福島鑑定があるのみで、逆に、守の急変後の救命可能性が有意に存在したことを窺わせる証拠はない。したがって、本件において守の急変後の救命可能性を認めることはできない。そうすると、原告らは、守の急変から集中治療室への搬入の前後において、適切な救命治療がなされなかった蓋然性を指摘するが、仮に右時期に適切な救命治療がされていなかったとしても、そのことと守の死亡との間に因果関係はないことになる。

2  適切な初期診療と守の急変を防止しえた可能性

(一) 本件において、症状が典型的なものではなかったとはいえ、守には背部痛、心窩部痛(圧痛)の自覚症状があった以上、まず、緊急を要する胸部疾患を鑑別するために訴外岡本は、問診によって守から既往症等を聞き出すと共に、血圧、体温、脈拍等のバイタルサインのチェックや聴診、触診等を行うべきであり、それによって狭心症、心筋梗塞等が疑われた場合には、心電図検査を行い、疾患の鑑別及び不整脈の監視を行うべきであった。上記のような手順で心電図をとるまでには、狭心症又は心筋梗塞の疑いを生じてから通常一〇分程度の時間がかかることが認められる(森証言、福島鑑定)。そして、心電図等から心筋梗塞の確定診断がついた場合、爾後の静脈内注射による治療のために静脈留置針により血管を確保すると共に、低酸素血症による不整脈の誘発や心筋虚血の増悪等を防止するために酸素吸入その他の治療行為を開始すべきであり、また、致死的不整脈又はその前兆が現れた場合には、リドカイン等の抗不整脈剤を投与すべきであった。これらの措置をとるのにまた、若干の時間がかかる。

ところで、前記認定によれば、守が訴外岡本の診察を受けてから容体が急変するまでの時間は、診察時間を一〇分前後、部屋の移動から容体急変までの時間を五分前後として、合計一五分間余ということになるから、適切な初期診療が行われたとしても、右治療行為を開始することができたのは容体急変の直前か急変の後というべきであり、右時間の算定そのものが確定的でない以上、このような状況下でなお、守の急変を防止しうる可能性が有意に存在したということはできない。なお、時間経過に関する原告らの主張によっても、守が診察を受けてから容体が急変するまでの時間は、一五分間程度ということであるから右説示が妥当するというべきである。

(二) ニトリグリセリンの舌下投与は、狭心症に対しては概して有効であるが、一旦発症した心筋梗塞部位の回復に対しては無効であり、かつ、血圧低下等のほか、重篤な副作用や他の疾患を増悪させることがないため(甲一七号証)、訴外岡本が狭心症の疑いを持った(乙一号証)以上、鑑別診断と(狭心症)治療を兼ねて早期に右薬剤を投与すべきであった。

しかし、本件においては、守が訴外岡本の診察を受けた時点で既に心筋梗塞は増悪した状態にあり、診察後極めて短時間で致死的不整脈を生じていることに照らして、ニトログリセリンの投与により、狭心症から心筋梗塞への移行、ひいては、本件の守の急変を防止し得たと認めることはできない。

3  守に対してなされた薬剤投与の影響

前記認定のとおり、訴外岡本は、守に対して、急変前にペンタジン三〇ミリグラムを筋注し、更にFOY三〇〇ミリグラムをフルクトラクト二五〇ミリリットルに溶解して点滴注射している。そこで、これらの薬剤投与が守の症状を急激に増悪させたといえるかが問題となる。

まず、ペンタジンについては、左室充満圧・肺動脈圧や抹消血管抵抗を上昇させ、心筋酸素需要を増大させるので、急性心筋梗塞には不適当であるという指摘が存在し(甲一八号証参照)、右薬剤の効能書においても心筋梗塞等の心機能低下のある者については、特に静脈内投与の場合急性心筋梗塞患者の動脈圧、血管抵抗を上昇させるので慎重に投与することとされている(甲三号証の一、二、甲四六号証)。しかし、禁忌とされているわけではなく、右薬剤の効能の一つとして心筋梗塞における鎮痛が挙げられている(甲三号証の一、甲四六号証)。

次に、FOYについては、右薬剤の循環器系に及ぼす副作用として血圧降下が指摘されているが(甲三号証の三)、これは心筋梗塞の増悪要因となりうる血圧上昇とは相反するものである。

そうすると、特にペンタジンの筋注が守の心筋梗塞の症状を急激に悪化させたり、致死的不整脈を誘発したのではないかという疑いが生じる。しかし、本件では、ペンタジンの薬理効果が現れる前に守の急変が生じていることが認められ(福島鑑定)、右各薬剤の投与と守の急変との間には因果関係を認めることはできない。

4  守を歩行させたことの心筋梗塞への影響

心筋梗塞の発症早期には、過剰な体動が不整脈の発生や心負荷の増大による心筋虚血の増悪や梗塞巣の拡大等を招くおそれがあることから、安静を保つことが重要である(甲一八号証)。もっとも、本件で守が歩行したのは尿検査を実施したときと、点滴を打つために診察室から向かいの部屋に移動したときくらいであり、このうち、尿検査のために相当距離を歩いたことを示す証拠もないことから、これらの歩行をさせたことが直ちに守の急変につながったということはできない。

四  結論

以上のとおり、守の死因は不明であって、ひいては、訴外岡本の作為、不作為と守の死亡との間に因果関係を認めることができないから、原告らの守の死亡を理由とする損害賠償請求には理由がない。

なお、前記認定の事実経過によれば、訴外岡本は、背部痛及び心窩部痛の自覚症状を訴えていた守を診察するにあたり、血圧等のバイタルサインのチェックや心電図の測定を行っておらず、また、狭心症を疑っていながらニトログリセリンの舌下投与も行っていない等、胸部疾患の可能性のある患者に対する初期治療としてなすべき基本的義務(森証言、福島鑑定)を履践していなかったことが認められる。そして、原告らの主張する慰謝料の中には、この適切な初期診療、治療を受けることができなかったことによる守本人及びその遺族としての心残りが含まれていると解することができる。しかし、右にいう「心残り」の背景には、守の死亡という悪結果があることは否めず、にもかかわらず、「心残り」なるものを損害として慰謝料請求を肯定することは、一旦、訴外岡本の過失との因果関係が否定された守の死亡による損害(慰謝料)の賠償を認めることになり妥当ではない。

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